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拒食症

2011.11.06 (Sun)

前の日記から約2ヶ月放置プレーでした(汗)
ごめんなさい。

半世紀生きた今の私が学生時代の私と出会ったなら、
過干渉が嫌だと言いながら、親元で暮らし、
短大まで行かせていただいたのに、
あなたの「甘えすぎよ!」と言うと思います。

が、当時は、まだまだ人生経験も浅く、もがいておりました。

失恋をきっかけに食べ物が食べられなくなり・・・
そのおかげで、かなり痩せた私は、色々な方々から
前よりも少しだけ注目されるようになりました。

「私を見て」
自己顕示欲が強かった当時の私は、痩せることで、
自分への注目を集めたかったんでしょうね〜。

次第に食べ物を食べるのが怖くなり、40キロを切るか
切らないかという体重になりました。

骨ばってくるのが、すごく嬉しく、もっと、痩せなくては!と
特異な精神状態になっていました。
11:15  |  タマラ  |  Comment(0)

幼少〜学生時代

2011.09.10 (Sat)

前回は「ほんとうの私を見て」で終わりました。

1日経って、考えてみました。

「私の想っていること、考えていることを聞いて!!」が
自分のあの頃の気持ちに沿っているかな?と思います。

私が7歳の冬の日、夜、母の集金の仕事で母と私を車に乗せて
お客様にところに行くために母は住宅街の狭い道を渡っていて
タクシーに跳ねられました。

私はその時、後部座席にいました。
父が、「外を絶対に見るんじゃない!!」と言って、車から降りていきました。

私は子供ながらに、なにか大変なことが起こったと思いました。
そっと、後部座席から外を見ると、タクシーの後部が見えて、
人がたくさん集まってきています。

慌てて車を降りて、母を探しました。
母の靴やバックが道のあちこちに転がっています。

母はタクシーに跳ね飛ばされて、民家の車庫とタクシーの間に
倒れていました。

救急車が来て、母が救急車に乗せられ、多分、父は車でその後を
追ったんだと思います。

私、残念ながら、あまり子どもの頃の記憶がないんです。
ただ、母と一緒に救急車に乗ったことは覚えています。
お母さんがいなくなったら、どうしようとパニックになっていたような気がします。

病院について母は入院。
今は亡き母の妹(母が仕事の時、私をよく預かってくれていました。)も駆けつけた時、
私は母のベットの下に隠れていて、やっとのことで帰らなきゃダメなんだと
説得をし、父に連れられて帰ったそうです。

お母さんがいない生活・・どうしていたんだろう???
そういえば、それも覚えていません。

ただ、後で母から聞いたのは、父が母がいないので、仕事を早く終えて帰宅して、
私と二人の生活をしていて、私が毎晩「おかあさ〜ん」と泣くので、
これほどまでに子どもにとって母親の存在は大きいのか!と思ったそうです。

父は、7歳の時に実の母親を亡くしており、後妻さんに育てられました。
後で聞くと、色々と苛められて、つらかったこともたくさんあったようです。
小学生の運動会では家族で昼食を食べたことがないそうです。

後妻さんとの間に生まれた二人の妹と後妻さんは白いご飯を食べるのに
父を含め、前の奥さんとの子どもたち5人は白いご飯は食べさせてもらえなかったそうです。

私の母は住み慣れた道東の街からから小樽の名家へ住み込みのお手伝いとして働いていた時には
腐った白飯を食べさせられたそうです。
50年前の日本でも、いじめの構図はあったのです。

誰でも人間の奥底には、こうやって、どの時代にもいじめの元になるものを
持っているものだと私は思います。

話がずれました。
この話は、いずれ違う日に。

父は、母の事故以来、変わろうと努力をしました。
家庭をできる範囲で顧みるようになりました。
私の話も聞こうと努力してくれました。

だから、私は父のことを信頼できる存在になりました。
母は・・・私がどうして問題行動を起こすのか?よりも、
大切な娘が自分の思う通りの生き方をしないことで、
過干渉がひどく、母とのバトルが激しくなっていったのです。

まずは話をちゃんと聞いてほしかった。
私の学生時代の心の叫びです。

つづきはまた次回。

18:38  |  タマラ  |  Comment(0)

タマラエナジーに出会うきっかけ1

2011.09.09 (Fri)

タマラに出会ったのは、まだタマラという名称もない10年前です。

現在の私は、自分の両親が一生懸命、育ててくれたことに対して
感謝しています。

ただ、当時の自分が何に悩んでいたかを話す時に自分の幼少期のことの出来事も
触れざるえません。

でも、大好きな両親であり、プライバシーもあります。
できるだけ話が見えるように書いていきますが、
わかりづらい部分もあるかと思います。
ご理解いただけると嬉しいです。

私が幼少期を過ごした昭和40年代は、今に比べたら
まだまだ貧しい時代でした。
医療も進んでいませんでしたので、母の両親は結婚前にすでに他界。

男性は高度成長期で仕事人間。
母は私を帝王切開で生む前に腸の病気で3度、お腹を手術しています。

身体の弱い母はお金もない、頼る両親もいない、
夫(父)は仕事が忙しくて帰ってこない状況の中、
私を生み、その私が重度の喘息持ちとなり、
病院代を生み出すために内職をはじめ、色々な仕事をしていました。

毎晩、遅く帰ってくる父に少しでも家庭を顧みる余裕があれば、
きっと母の気持ちも救われたのでしょうが、お互いの気持ちが
すれ違ってしまい、喧嘩ばかりしていました。

母の心も身体も 今思うと、きっとボロボロだったと思うし、
父は父で一生懸命、働くことが家族を守ることに繋がると
思っていたような気がします。

母は色々なストレスを私にぶつけることが多くなりました。
私は怒られないように、いつも気を使って生きていました。
父と母が仲良くなれるよう望んでいた私は二人が求める
いい子でいることが必要でした。

時に心や肉体が痛い思いをしても、私は自分の心と身を守り、
生きていくために自分の感情を殺し、
やりすごすことを覚えてしまったのです。

小学校3年生くらいだったでしょうか?
耳鼻科に通っていて、耳を奥までいじられた時に
とても痛くて、でも、私は「痛い」ということを言えなかった。
でも、痛くて涙だけがでました。

先生が「痛かったのかい?どうして、痛い時に痛いって言わないんだい?」と
言われました。
帰り道、母からは「なんで、痛いんだったら、痛いって言わないの!!」と
叱られました。

私は今でも、その癖が少し残っています。
痛い!って言えないんです。

泣いて、わめいて、自分の感情を出す機会が幼少期になく、
ただただ、声を出さずにシクシク泣くしかできなかった私です。
きっと、今の私をご存じの方は、信じてもらえないかと思いますが・・。

思春期に入った時は自我を構築するために、両親を困らせるようなことばかり
やりました。
ヤンキーに片足突っ込んだ状態でした。
その時の心の叫びは「ほんとうの私をちゃんと見て!!」だったと思います。

今日の日記はこのへんで。


17:59  |  タマラ  |  Comment(0)

タマラって何?

2011.09.03 (Sat)

色々な方からタマラって何?という質問をいただきます。

目には見えないタマラエナジーを言葉にするのは とても難しいので、
以前、サロンのブログとして使用させていただいていたこちらのブログで、
私がタマラエナジーのアクティベーションを受けようと思ったきっかけ、
受けてから何が変わったか?何がよかったと思うか?などを
書いていきたいと思います。

ヒーリングやエナジーというと「怪しい」と思われる方もたくさんいらっしゃると思います。
私自身もアクティベーションを受ける時、「まぁ、これで体調がよくなったらいいな〜」
くらいにしか考えていませんでした。

なので、「怪しい」と思われる方のお考えを尊重いたします。
そして、このブログを見てくださる方が私の考えも尊重していただけると嬉しいです。
15:15  |  タマラ  |  Comment(0)
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